【自分のことなら気にならない。自分の事ほど分からない】
「そこのけそこのけ私が通る」(笑)
昭和の最後辺り、アニメから派生したオバタリアンという言葉が出回りあつかましい中年女性を例える言葉としても使われた。
自転車に乗っていると迫り来る自動車に「危ないじゃないのっっ!!」と言い、車に乗るとヨロヨロと車道に出てくる自転車に対して「危ないじゃないのっっ!!」。
もひとつおまけに横道から出てこようとする自動車に対しても「出てくんじゃないわよっっ!!」(笑)
本人がどこにいるかだけの問題で、オバタリアンVSオバタリアンの戦い(笑)
自分がやっていない時には相手の行動が目につく。
自分がやっている時には自分の行動なんて無意識だから何も気にならない。
意識して見ている相手の行動に対して難癖つける事ほど簡単。
そして相手を批難しているその時にほのかな正義感や自分の正しさ肯定感まで漂う。
そんな自分の無意識な行動をまさにその時誰かが意識して見ていることなんて考えていない。
うん。だから生きていける(笑)
万人に愛され、ほんのわずかな隙もなく、生まれて死ぬまでひとつも非難されず否定されず生きた人なんていない。
そして相手の嫌いな部分しか見えないという人が居たとするならば、むしろその人の方が大変な人生。
誰かに「自分が好かれよう愛されよう」として動くより、「あなたを好きだから愛してるから幸せになって欲しい」と思って動く方がシンプルで結果だって出やすい。
文句言われないためにやるよりも、喜んでもらうためにやる。
そんな風に考えて生きていたら、相手が眉間にシワを寄せてしまうほどの事は最低限しないと思う。
誹謗中傷が習慣化している人はきっと趣味が「人間観察と相手の難癖探し」であり。
だからその趣味を持っている人から誹謗中傷されないために全力を尽くすと言うことは…ゴキブリ愛好家の人のために大金かけて害虫駆除業者を雇ってあげてしまうようなもの?(笑)かもしれない。
そんな歓迎されない努力に時間を使うより、自分の持っている何かで誰かに喜んでもらえる方法を考えた方が幸せだなと。
誰かの嫌なところをじっと凝視してイライラするよりも、尊敬できる人のアドバイスを聞いて素敵な行動を真似する方がキラキラ明るい。
文句や愚痴ばかり言っているその人は尊敬できる人ですか?
何度も会いたくなるくらい、いつも一緒に居たくなるくらいの人に私はなりたい。
そして一緒に居ると森林浴みたいに清々しくて、毎日が大笑い出来るくらいの仲間をどんどん増やして、みんなが喜んでくれるような生き方をしたい。
相手の事はよく見える。悪いところほどよく見える。
自分の事はなかなか見えない。無意識な部分ほどなかなか見えない。
ならば相手の喜ぶ顔を見るために自分の行動を考えればいいんだよね。
相手が喜んでくれて幸せそうに笑ってくれてるのであれば、今の自分はなかなか良いぞということだ(笑)【大丈夫】(*´꒳`*)